長嶋茂雄の伝説エピソードまとめ!ミスターの面白い逸話を厳選して紹介

ミスタープロ野球・長嶋茂雄。その長嶋茂雄に数々の伝説が残っています。しかし、長嶋茂雄の伝説は凄いエピソードから面白い逸話まで様々なんです。長嶋茂雄の伝説的なエピソードから面白い逸話まで紹介します。なぜ長嶋茂雄がミスタープロ野球と言われているかわかると思いますよ

長嶋茂雄の伝説エピソードまとめ!ミスターの面白い逸話を厳選して紹介

目次

  1. ミスタープロ野球・長嶋茂雄の伝説的なエピソードたち
  2. 伝説のプロ野球選手の長嶋茂雄
  3. 伝説的な野球選手としての長嶋茂雄の記録
  4. 長嶋茂雄自身も伝説的な野球選手との出会いがきっかけ
  5. あの長嶋茂雄を正座させた伝説の人物とは
  6. 伝説的な長嶋茂雄も高校時代は無名選手だった
  7. 長嶋茂雄の立教大学時代の伝説
  8. 大学時代に様々な伝説的な記録を残した
  9. 実は長嶋茂雄は南海ホークスに入団する可能性があった
  10. 入団してからの長嶋茂雄は伝説だらけ
  11. 長嶋茂雄の本塁打の伝説
  12. 成績以外の長嶋茂雄の伝説的な言動
  13. 伝説の捕手・野村克也さえも長嶋茂雄にはお手上げ
  14. 天覧試合での伝説のサヨナラホームラン
  15. 長嶋茂雄の元に伝説は生まれ続けた

ミスタープロ野球・長嶋茂雄の伝説的なエピソードたち

ミスタープロ野球と言われる長嶋茂雄。長嶋茂雄がそのように言われる理由には数々の伝説的なエピソードが存在するからなんです。

また、そんなミスタープロ野球と呼ばれる長嶋茂雄ですが、そのエピソードは面白い逸話が多いんです。飾らないそんな長嶋茂雄の姿は、昭和のプロ野球史に深く刻まれています。

伝説のプロ野球選手の長嶋茂雄

長嶋茂雄は1936年2月20日生まれの81歳です。長嶋茂雄の生まれは千葉県印旛郡臼井町です。元プロ野球選手であり、読売ジャイアンツの選手、そして監督を務めた選手です。

現在は、読売ジャイアンツ終身名誉監督であり、日本プロ野球名球会顧問を務めています。長嶋茂雄はプロ野球として、同じく読売ジャイアンツの王貞治と共に活躍し「ON砲」と呼ばれて、昭和のプロ野球の黄金期を支えた人物です。

もし、長嶋茂雄や王貞治という人物が居なければ、プロ野球は日本の国民的スポーツとして現在まで人気であり続けることは無かったかもしれません。それほど、長嶋茂雄が野球に残した功績は大きいんです。

また、そんな人物でありながら飾らない人柄で常に野球に対しては闘志あふれるプレイで観客を沸かせました。それだけにミスタープロ野球は多くの伝説的な逸話を残し、同時に面白い逸話を残してくれているんです。

伝説的な野球選手としての長嶋茂雄の記録

まずは、長嶋茂雄のミスタープロ野球としての伝説的な記録に関するエピソードを紹介していきましょう。長嶋茂雄は、どのようにしてミスタープロ野球と言われるようになったのでしょう。

長嶋茂雄は1936年に千葉県で生まれ、兄1人と姉2人の4人兄姉の末っ子として誕生しました。長嶋茂雄の生家は農家だったようですが、土地を貸し出して父親は町役場の収入役や助役をしていたようです。

父親は世話焼きな性格だったとも言われ、また母も意志が強いしっかり者だったようです。そんな長嶋茂雄が野球を面白いと感じたのは、プロ野球創黎明期を支えた人物たちでした。

長嶋茂雄自身も伝説的な野球選手との出会いがきっかけ

その人物が、当時の東急フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズにあたる)の「青バット」と言われた大下弘、そして大阪タイガース(現在の阪神タイガース)の藤村富美男でした。

特に「物干し竿」と言われるような37インチから38インチの長いバットを使う藤村富美男のファンでした。そのため、長嶋茂雄は関東出身者で関東在住ながら、幼少期は阪神ファンだったんです。

兄の影響で小学校4年生ごろから野球を初めた長嶋茂雄。そのころは、まだ終戦間もない時期で、なかなか野球道具が揃えることが難しかったようです。

そのため、母親にビー玉と堅い布でボールを作ってもらったという逸話も残っています。そして、野球のグラブも母親の手縫いだったようです。そして、バットも青竹を割って作った手製のものだったというエピソードが残っているんです。

あの長嶋茂雄を正座させた伝説の人物とは

小学校時代は兄のもとで遊撃手として育てられたようです。その後、中学校に入った長嶋茂雄。このころの野球人気は凄まじいもので、長嶋茂雄の学校ではアンケートを書かせたらほとんどが将来の夢に「プロ野球選手」と書くほどでした。

そんな生徒の姿に長嶋茂雄の担任は、生徒たち全員を机の上に正座させて、もっと現実的な夢を考えるように諭したようです。

後に、この中からミスタープロ野球が生まれるわけで、先生もまさか長嶋茂雄がそんな大スターになるとは夢にも思っていなかったという逸話があります。

高校は県内トップの進学校だった千葉県立千葉高等学校に入学する予定だったものの、結果的に地元の名門である千葉県立佐倉高等学校に進学しました。

伝説的な長嶋茂雄も高校時代は無名選手だった

高校では2年生から4番打者だった長嶋茂雄。すでに、伝説的な野球選手になる道のりを歩み始めていたといえるでしょう。

しかし、高校時代は無名選手であり、高校最後の大会では千葉代表校として出場まで至ったものの、1回戦で敗北してしまいました。また、このときに三塁手が負傷したため、長嶋茂雄は遊撃手ではなく、三塁手として出場していたんです。

このことが長嶋茂雄のあの三塁手としての伝説的なエピソードを残すきっかけとなりました。元々、長嶋茂雄は遊撃手ではエラーが多かったようで、以前からこのコンバート案はあったようです。

この試合で自信唯一の本塁打を放っており、この一打が野球関係者から注目されるきっかけになりました。関係者の中で噂が広まり、長嶋茂雄は富士製鉄室蘭への入社を勧められたものの、父親の希望である進学を選ぶこといなります。

長嶋茂雄の立教大学時代の伝説

実はこのとき、すでに読売ジャイアンツからプロ入りのオファーがあったようです。しかし、長嶋茂雄の父親は勝手にそのオファーを断り、進学させたという逸話も残っています。しかし、それが立教大学時代の長嶋茂雄の伝説につながります。

立教大学に進学した長嶋茂雄。そんな大学進学を推し進めた父親はその年の6月に急逝してしまったんです。収入源を断たれた長嶋家は、母親が野菜売りの行商を初めて家計を支えたというエピソードがあります。

長嶋茂雄は大学を中退してプロ入りしようとしたものの、この考えを母親に反対されたそうです。野球部における長嶋茂雄は砂押監督にメジャー選手のプレイを参考にした練習などを中心に、かなり厳しい練習を積んだようです。

ある意味で特別待遇だった長嶋茂雄は、それだけ野球選手として金の卵と考えられていたわけです。そして、正三塁手の座を掴んだ長嶋茂雄は、杉浦忠(後に南海ホークス)、本屋敷錦吾(後に阪急ブレーブス)と共に「立教三羽烏」と言われ伝説として語り継がれることになります。

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大学時代に様々な伝説的な記録を残した

長嶋茂雄は大学時代に、首位打者や5シーズン連続で三塁手のリーグベストナインに選ばれています。また、六大学リーグの通算新記録となる8本塁打も残し、東京六大学リーグ戦通算96試合に出場しています。

打率は.286、8本塁打、39打点、22盗塁という打撃も守備も走塁もいけるという点で高い評価を受けたんです。

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実は長嶋茂雄は南海ホークスに入団する可能性があった

このときの長嶋茂雄の面白いエピソードとして、高校時代からプロ入り間違いないと言われていた長嶋茂雄の、当時の本命は南海ホークス(現在のソフトバンクホークス)だったんです。

そんな中で読売ジャイアンツは、長嶋茂雄の家族に接触し、家族から読売ジャイアンツに入団するように説得して欲しいと頼み込んでもらう作戦に出たんです。当時は逆指名制度に近いものがあり、選手が自分の入りたい球団を希望することが出来る部分がありました。

母親から在京球団にして欲しいと頼まれたことから、長嶋茂雄は読売ジャイアンツに入団することを決めたんです。少し歯車が違ったら長嶋茂雄は南海ホークスの選手になっていたと考えると思うと面白いですよね。

この読売ジャイアンツに入団したエピソードにはいろんな裏話があると言われています。先輩である大沢啓二は南海ホークスに入団しており、長嶋茂雄も先輩の元でプロ野球選手になるという選択肢がありながら、どうしても読売ジャイアンツに入ることを希望していると大沢啓二に相談したと言われています。

また、入団の契約金は南海ホークスの方が高かったともいわれており、読売ジャイアンツに入団した長嶋茂雄は、オープン戦で南海ホークスの監督である鶴岡一人に謝罪したと言われています。鶴岡一人監督もそんな長嶋茂雄を笑って許したのだとか。

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入団してからの長嶋茂雄は伝説だらけ

オープン戦で7本塁打を放つなど絶好調の長嶋茂雄。もちろん、開幕戦でも3番サードに起用された長嶋茂雄は、国鉄のエースで後に400勝という前人未到の記録を残す。金田正一に4打席連続三振を記録してしまったのです。

面白いのがさすがミスタープロ野球。長嶋茂雄はすべての打席で渾身のフルスイングでした。ルーキーの選手は始めての打席に立つと震えてバットを触れないと言われる中で、渾身のフルスイングに金田正一も驚いたようです。

そんな金田正一とは通算では.313で本塁打は18本と最終的には打ち勝っているなど、長嶋茂雄の伝説的な記録の一つとして語り継がれています。

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長嶋茂雄の本塁打の伝説

もはや球界の面白いエピソードとして必ず登場する長嶋茂雄の本塁打の逸話。長嶋茂雄はルーキーイヤーに放った28本塁打目。これは当時の新人記録であったため、喜びを噛み締めながらホームベースに帰ってきた長嶋茂雄。

しかし、そんな長嶋茂雄に待っていたのは「一塁ベースを踏み忘れたので本塁打取り消し」というものでした。記録としてはピッチャーゴロになった長嶋茂雄の幻の28号は、別の試合で本塁打を打って達成しています。

とはいえ、結果論ながらもしこのときの1本が加わると長嶋茂雄は新人にして打率3割・本塁打30本・30盗塁の「トリプルスリー」を記録していたことになり、まさに幻の伝説の記録を残していたわけです。

結果として長嶋茂雄は新人として打率.305、本塁打29本、盗塁37という伝説的な記録を残しているんです。打点も92であり、100打点に迫っていたわけで、長嶋茂雄という人物がミスタープロ野球になるのはこのルーキーイヤーから決まっていたことなのかもしれません。

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成績以外の長嶋茂雄の伝説的な言動

長嶋茂雄はミスタープロ野球として野球選手の記録として素晴らしいエピソードも多いのですが、その言動も面白いエピソードが多いんです。

例えば野球選手が自分の誕生日にホームランを打つ「バースディアーチ」。王貞治が自分の誕生日にバースディアーチを放っているのを見て、なぜ自分がバースディアーチを打てないのか悩んだという長嶋茂雄。

実は長嶋茂雄の誕生日は2月20日。プロ野球の公式日程はすでに終了しており、次のシーズンもまだ始まる前なんです。つまり、長嶋茂雄がバースディアーチを放つことは絶対に無理なんです。そんな面白い逸話がたくさん残っているんです。

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伝説の捕手・野村克也さえも長嶋茂雄にはお手上げ

同時期に活躍した伝説的な名捕手の野村克也。そんな野村克也といえば、打席に入ってきた選手に何気ない話をしたりプライベートをいじる「ささやき戦術」という技がありました。

野村克也は長嶋茂雄にバッティングフォームが普段と違うことを指摘して混乱させようと考えていました。長嶋茂雄は打席でその言葉を聞いて、素振りを何度かすると見事にホームランを放ってしまったんです。

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天覧試合での伝説のサヨナラホームラン

長嶋茂雄の伝説的な逸話の中で、もっともファンの記憶に残っていると言われるのが、1959年6月25日に行われた試合です。この試合は昭和天皇が観戦するプロ野球史上初の天覧試合となった伝説の試合でした。

長嶋茂雄は決着がつかずに延長となる可能性も出てきた9回裏。延長の場合に時間的にもそのまま天皇陛下が試合を見続けるのか関係者も慌てていたところ、長嶋茂雄は阪神タイガースのエースであった村山実の5球目を見事、レフトスタンドに放り込んだんです。

この伝説的な一打は、初の天覧試合においてサヨナラホームランで決着がつくという伝説の試合となったのです。村山実は亡くなるまであのホームランはファールだったと信じていたとも言われており、長嶋茂雄が放った一打の伝説はいまでも受け継がれているわけです。

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長嶋茂雄の元に伝説は生まれ続けた

長嶋茂雄の現役生活は17年。監督としても15年活躍しました。監督としても優勝が5回、日本一も2回成し遂げています。監督としても、自らの伝説を受け継がすように松井秀喜を中心とした名選手たちを育て上げました。

2004年に脳梗塞で倒れ、一命は取り留めたものの右半身に麻痺が残り言語障害も抱えてしまいました。しかし、それでも長嶋茂雄は野球に関わり続け、その伝説的な人物は多くの野球ファンの憧れであり続けています。

2013年に国民栄誉賞を受賞し、現在も80歳を超えてもグランドに顔を出し若手選手たちに声をかけつづけています。長嶋茂雄と王貞治という二人の伝説の人物が野球界を盛り上げ、国民的スポーツにしたのは間違いありません。

面白い逸話が注目されることが多い長嶋茂雄ですが、その伝説的なエピソードの裏には血の滲むような練習があったと言われています。常にみんなのヒーローであり伝説的な人物であり続けるプレッシャーを考えると、言葉にするのも難しい部分があります。

長嶋茂雄の伝説的なエピソードは語り尽くせません。選手として監督として、そして野球人として長嶋茂雄は野球界の伝説なわけです。長嶋茂雄を超えるような人物は現れることがあるのでしょうか…。

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