陽気なおじちゃん。そんなイメージのあるお笑い芸人のビートたけし。しかし、かつてのビートたけしはフライデー襲撃事件を起こした非常に危険な人物だったんです。なぜビートたけしがフライデーを襲撃したのか、その真相を画像を絡めながら改めて紹介します。

目次
ビートたけしが起こしたフライデー襲撃事件とは
芸能界の世界で、さまざまな事件が起きてきましたが、おそらくビートたけしが起こした『フライデー襲撃事件』を超えるものはないかもしれません。ビートたけしが描く映画の世界以上にバイオレンスで命がけの出来事。そのフライデー襲撃と改めて紹介します。
もう誰が不倫とかどーでも良いよ!ベッキー&ゲスのせいでなんか厳しい風潮になったけど我らがビートたけしのフライデー襲撃事件なんてたけしの愛人への取材にアタマ来たからの行動でしょう~?たけしには何も言わないんだから、他の人にももうどーでも良いジャン。
— ファンキーOL奈々 (@nana20090623) June 12, 2017
いまだに何か芸能界で事件が起きると出て来る単語が『フライデー襲撃事件』という言葉です。果たしてビートたけしが起こしたフライデー襲撃の真相とはどのようなものだったのか、当時の映像や、ビートたけしの歴代の画像を見ながら時系列を追って見ましょう。
ビートたけしは狂気の人間だった!?
ビートたけしは1947年1月18日生まれの70歳です。本名は北野武です。東京都足立区島根出身のビートたけしは、現在は70歳という年齢に入って丸くなったように見えますが、若い頃はかなり鋭い目つきで、尖ったナイフのような怖さを持った人物だったように見えます。
「色気」とは一体何だろうとよく考えるんだけどフライデー襲撃事件後会見でのビートたけし とんでもなく色気があると思う pic.twitter.com/3v9eNTWcEU
— 幹 (@_3ki0) March 28, 2017
当時、フライデー襲撃事件を起こした直後のビートたけしの画像を見ると、後にビートたけしが作ったヤクザ映画『アウトレイジ』の1シーンのように見えますよね。この画像からビートたけしが陽気なおじちゃんという一面よりも、どこか裏のある怖い人物であることがうかがえます。
ビートたけしは塗装職人の父親である北野菊次郎のもとに四男として生まれました。後に映画『菊次郎の夏』の題材にもなった人物です。正確な生まれは浅草で、すぐに足立に移ったというなかで、決して裕福な生活ではなく、貧しい生活だったようです。
フライデー襲撃事件をビートたけしが起こすまで
演劇や芸能の世界に興味を持っていたビートたけしは、さまざまな仕事を転々としながら、ジャズ喫茶のボーイとして働いていました。そこには、様々な芸の世界の人間が出入りしており、ビートたけしの後の交友関係にもつながっています。
先輩からはコントメインのお笑い芸人になることを勧められるも、それを断って漫才のスタイルでお笑いをやることを決意します。そして、ビートたけしは2年先輩の兼子二郎(後のビートきよし)とコンビを組んで『ツービート』を結成します。当時ブームのしゃべくり漫才で一躍人気お笑い芸人の仲間入りを果たしました。
ガラの悪い劇場で下積みを経験しているだけに、どんな場面でも堂々と漫才を続け、ビートたけしの毒舌がウケにウケたようです。また、演芸を叩き込まれていたので、楽器の演奏やタップダンスもこなすなど、即興で様々なお笑いを展開出来ることもビートたけしの強みでした。
なぜビートたけしとフライデーはもめたのか
漫才ブームに乗って一躍有名になったあとは、1981年に伝説のお笑い番組『オレたちひょうきん族』を開始させます。この番組がきっかけとなって、ビートたけしの弟子になりたいと、大量の弟子志願者が詰めかけます。しかし、ビートたけしは弟子を取らない主義だったため、軍団という形でそれを受け入れることになるのです。
その軍団が『たけし軍団』と呼ばれ、後のフライデー襲撃の真相と大きく関わってくることになります。このころのビートたけしの画像を見ると、やはり何か言葉にできない怖さを感じるかもしれません。
ビートたけしが起こしたフライデー襲撃事件が起きたのは、1986年12月9日のことでした。お笑い芸人として、さまざまな人気番組を持っていたビートたけしは、なぜフライデーを襲撃するという事件を起こしたのでしょうか。その真相は意外なものだったかもしれません。
愛人に暴力を振るわれたことがフライデー襲撃の理由
この事件の真相は、過熱する週刊誌のプライベートの取材でした。ビートたけしに限らず、当時の週刊誌の記者は、プライベートのネタを探ろうとかなりやりすぎた取材を繰り返していました。ビートたけしもそのことには不満を感じていたものの、あくまで自分自身のことに関しては我慢していたようです。
しかし、フライデー襲撃事件の真相は、当時ビートたけしが交際していた愛人にフライデーの記者が取材したことが原因だったようです。
1986年12月8日に東京の渋谷区で、当時39歳のビートたけしが交際していた21歳の専門学校生に事件が起きました。フライデーの契約記者が、彼女の通う学校の校門前でいきなり取材を行ったのです。
一般人に取材したことがビートたけしは許せなかった
フライデーの記者は女性とビートたけしの関係を追及したかったようですが、女性はそれを避けて立ち去ろうとします。そのとき、記者がテープレコーダーを顔に突きつけ、手を掴んで引っ張るなどの行為に及んだのです。そのことで、女性は頚部捻挫、腰部捻挫などで全治2週間の怪我を負ったのです。
このことを知ったビートたけしは激怒したそうです。そしてフライデーの発行元である講談社に電話をかけて猛抗議したのです。その場で満足な謝罪が無かったためか、講談社に向かうことを告げ、12月9日午前3時過ぎに、ビートたけしとたけし軍団のメンバー11人で、講談社がある文京区音羽に向かったのです。
フライデーによる挑発がビートたけしの暴行事件に発展
フライデー襲撃のとき、ビートたけしはあくまで軍団には手を出さないよう指示していたようです。しかし、当時のフライデーの編集次長の好戦的な態度、そして挑発的な発言によって、ビートたけしとたけし軍団によるフライデーへの暴行へと発展したのです。
後にこのときにビートたけしに同行したメンバーと、そうではないメンバーは別物と言われるほど、大きな事件になりました。時には『殿』と呼ばれるほどの人物であったビートたけしの襲撃に、従えるかどうかという踏み絵的な要素があったと言われています。
ビートたけしとたけし軍団
そもそもたけし軍団とは、1980年台ごろから集まったビートたけしのいわば弟子的な存在の集まりで、正式には1983年にたけし軍団という名称で結成されました。
メンバーは全員男性という条件以外は特に無く、最初期のメンバーを『一軍』、初期を『二軍』そして1986年を『三軍』それ以降を、『若手』という分け方がされています。
1軍はガダルカナル・タカ、つまみ枝豆、松尾伴内、ダンカン、ラッシャー板前、グレート義太夫、井手らっきょと言われています。2軍の多くは引退しており、キドカラー大道はフライデー襲撃のときに、最前列で行動していたことで有名です。
なぜフライデー襲撃にたけし軍団は付き添うのか
ビートたけしの一番弟子はそのまんま東のようです。しかし、現在軍団内の順列的にはガダルカナル・タカが一番弟子として扱われているようです。その真相もフライデー襲撃が大きく関わっていると言われています。画像のようにビートたけしのバックを支えるのがたけし軍団ですね。
当時、お笑い芸人として、ほとんどのメンバーが毎日食べるものに困るような人たちばかりだったようです。ビートたけしは、そのたけし軍団たちが少しでも食べれるようにと、自分の仕事場に招いて仕事をさせていたようです。
それが、後のたけし軍団を中心としたお笑い番組が出来たきっかけのようですね。『スーパージョッキー』や『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』などは、まさにそういったたけし軍団の仕事場として生まれた番組だったといえます。
ビートたけしとフライデーの殴り合い
昔はプロボクサーを目指していたというビートたけし。もみ合いが始まる瞬間に中央の机がひっくりかえると同時に、ビートたけしは、事件を起こした記者である増子という人物の顔面を正拳突きしたようです。そして、柔道経験者の編集次長と組合になったそうです。
フライデー襲撃後のたけしは世界最高のテストステロン値を叩き出していたのだという pic.twitter.com/1kIJFCq3om
— パッショな坊 (@pb_KUFU) May 14, 2017
しかし、フライデーとのもみ合いが始まってそれほど立たない中で、編集部に大塚署の警察隊が飛び込み、ビートたけしとメンバーたちは移送されました。結果、肋骨骨折などで1ヶ月の傷害、また住居侵入、器物破損、暴行の容疑によって、現行犯逮捕されることになったのです。
襲撃された側の講談社は負傷した記者を伴って記者会見を行うなど、メディアは一斉にビートたけしのフライデー襲撃事件の様子とその真相を追うことになったのです。
フライデー襲撃に連れて行かれなかった男
フライデー襲撃のときに参加したメンバーははっきりしています。ビートたけし、そのまんま東、大森うたえもん、ガダルカナル・タカ、松尾伴内、ダンカン、グレート義太夫、柳ユーレイ、大阪百万円、キドカラー大道、サード長嶋、19歳の少年(おぼつちやま)でした。
このときたけし軍団の中心メンバーでありながら、参加しなかったのがラッシャー板前、つまみ枝豆、井手らっきょでした。その参加しなかった真相は、井手らっきょはそのとき彼女の家に居て携帯もなかった時代で、連絡がつかなかったんです。ラッシャー板前は痔のため、赤坂の病院に入院中でした。
つまみ枝豆がフライデーに参加しなかった真相
しかし、在宅中でありながら参加しなかったつまみ枝豆。というよりも、参加させたもらえなかったというのが真相です。この襲撃のとき、連絡をまわしたのが2軍のキドカラー大道ですが、ビートたけしを筆頭につまみ枝豆には連絡しないように指示したようです。
なぜ、ビートたけしはつまみ枝豆を参加させなかったのか。その真相は、つまみ枝豆は『ビートたけしのためなら死んでもいい』という雰囲気があったからです。画像のように陽気な人物に見えるつまみ枝豆ですが、元はヤンキーで右翼団体にも所属していた人物です。
記者会見に乗り込もうとしていたつまみ枝豆
もともとたけし軍団のメンバーは、元は素行の良くない人物が多く、身内に暴力団関係者が居るなど、気の荒い人物が多かったのです。そんな中でもつまみ枝豆は、ビートたけしのためなら何をするかわからないと声がかからなかったのです。
ビートたけしたちが警察署で対応している中で、講談社が記者会見を行うと、自宅で待機していたつまみ枝豆は、記者の顔をそれぞれ覚えて、襲撃する準備を整えていたと言われています。そんなとき、警察署で頼みに頼み込んでビートたけしは、つまみ枝豆に電話をかけたのでした。
ビートたけしは今は動かないように指示するとともに、たけし軍団たちを一生面倒見ることを誓って電話を切ったと言われています。このことがつまみ枝豆、そしてビートたけしが芸能界に残れた理由の真相のひとつだったかもしれません。
ビートたけしを見殺しにしたと言われた男
宮崎県知事を経験し、国会議員にもなったそのまんま東。そんなそのまんま東は、たけし軍団の中心人物だっただけに、このフライデー襲撃事件を元にした一つのネタを持っています。それは、襲撃のエレベーターを最後に乗り込んだせいで、開いたときには先頭になっちゃってたというものです。
歯が抜けました。こんな感じです。 pic.twitter.com/ROywGODtn3
— 東国原英夫 (@higashi_kokuba) March 20, 2016
しかし、この話は実は作り話であることが、襲撃したメンバーのキドカラー大道によって暴露されています。当時、ビートたけしの身の回りの世話役だったキドカラー大道は、どんなときも、自分が一番先頭に立ち、ビートたけしの先導をしていたのです。
今日は岸和田城を走った。このタイミングで岸和田というのも何か感慨深い。 pic.twitter.com/Xk7tCQw1JI
— 東国原英夫 (@higashi_kokuba) February 6, 2016
襲撃のときもエレベーターに自分が一番に乗り込み、一番先に降りたようなのです。また、暴行が起きている中でも、そのまんま東と松尾伴内は壁際でタバコを吸って、参加していなかったとされているんです。
遂に、ペコロスカットです。 pic.twitter.com/UEbLe2gRCj
— 東国原英夫 (@higashi_kokuba) July 20, 2016
そのため、この事件以降、そのまんま東の人望は地に落ちて、ガダルカナル・タカがたけし軍団の中心になったと言われています。画像のようにふざけた性格は、事件のときも自分の保身に回ったずる賢い男だったわけです。
ビートたけしはフライデー襲撃をどう語ったのか
お笑い芸人が起こした集団襲撃事件。ビートたけしは逃亡の可能性がないとして釈放されたあとに、画像のような釈明会見を行っています。
ここにビートたけしは、あくまで大事な人を守るための行動だったとしての釈明を行い、あくまで行動の正当性を主張する事態になりました。しかし、たけし軍団の力を借りたことは後悔しているようにも見えますね。画像のビートたけしの目つきがなんとも言えない怖さがあります。
フライデー襲撃の判決後のビートたけし
お笑い芸人としてこのフライデーの騒動は大きく、社会的にも週刊誌の行き過ぎた取材姿勢を見直すきっかけにもなりました。フライデーの事件で、ビートたけしは傷害罪で懲役6ヶ月、執行猶予2年を言い渡されました。また、お笑い芸人としての活動は謹慎7ヶ月に渡りました。
ビートたけしとフライデーの両方が反省する形に
また、フライデーに襲撃したたけし軍団のメンバーは起訴猶予処分になり、謹慎4ヶ月を言い渡されました。謹慎処分が解かれたあとも、しばらくはビートたけしの出るテレビ番組に抗議が続いたようです。この事件は、ビートたけしの行為と、フライデーの過激な取材の2つが断罪されるものとなりました。
ビートたけしとフライデーのその後
ビートたけしのフライデー襲撃事件を画像とともに振り返りました。この事件は現在まで賛否両論で、支持する人間もいれば、暴力は絶対に許さないという意見もあります。しかし、少なくとも当時のフライデーの取材に嫌気が指していた芸能界では、大きな転機になったと言われています。
フライデーも行き過ぎた謝罪行為を雑誌内で謝罪する記事を載せています。また1988年にフライデー編集部とビートたけしは和解のための草野球の交流試合も行われています。その後、写真家の篠山紀信撮影によるカラーグラビアが載るなど、一つの区切りはついています。
またフライデーによる謹慎期間中に、ビートたけしは教養を身につける勉強をして、人間として一回り大きくなったと言われています。それが後のテレビ番組『平成教育委員会』が生まれるきっかけになったようです。
ビートたけしが起こしたフライデー襲撃事件。その真相は、当時の行き過ぎたフライデーの取材体制、そして大事な人を守るための行動だったわけです。しかし、結果的にフライデーの現状を見ると形を変えただけで、その取材姿勢は改善されていないと思いますね。
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