山田洋次が監督を務めた国民的作品「男はつらいよ」。その主人公・寅さんこと「フーテンの寅」を演じた俳優といえば渥美清です。寅さんを演じたことで国民的人気を獲得した渥美清ですが、没後しばらく経っても当時の私生活は謎に包まれたままです。なかなかプレイベートを明かさないことで有名で、さまざな異説が飛び交っています。どのような性格だったのか。また死因は肺癌だったのか。その真相を含めて、驚きの私生活を調べてみました。

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私生活を明かさないことで有名だった渥美清
「男はつらいよ」の寅さんでお馴染み、渥美清。国民的な名俳優にしてコメディアンの渥美清は、没後20年以上が経った現在でも多くのファンにとって愛されている存在です。ですが、その私生活は依然として謎に包まれているところが多いことでも有名です。渥美清は私生活をなかなか明かすことなく、公私混同を嫌っていたことで、他者との関わりを比較的避けるような性格だったと言われています。
その謎につつまれた私生活では実は結婚して家庭を持っており、2人の子供に恵まれていました。結婚していた事実は公にせず、挙式は仕事関係者をいっさい呼ばず親族のみでささやかに行われたそうです。ファンや映画関係者を含めてほとんどのひとが渥美清を独身だと思っていたので、亡くなったあとにその家庭を知った関係者が多くいたそうです。今回は、そんな渥美清の知られざる私生活や性格に迫っていきます。
渥美清の死因とは?
渥美清の死因について諸説あるようですが、大きな死因は肺癌と言われています。渥美清が亡くなる5年前に見つかった肝臓癌が、そのあと肺へ転移してしまっていたようです。その当時は「男はつらいよ」の撮影中だったため、医師の反対を押し切って寅さんを演じ続ける渥美清。身体中に転移が広がり体調不良が続くこともあったため、晩年は転移性肺癌の摘出手術をしました。しかし、その4日後には帰らぬひととなってしまいました。
しかし渥美清の私生活を明かさない性格が影響し、闘病生活を強いられていることに気づく「男はつらいよ」の関係者はほとんどいませんでした。撮影現場では1人で癌の痛みに耐え、休憩時間ではぐったりと座り込んでいたとのこと。普通ならば病室で療養しているところ、身体中の痛みに耐えながら寅さんを演じ続けた渥美清は、医師からして「奇跡に近い」とされています。
「俺のやせ細った死に顔を他人に見せたくない。骨にしてから世間に知らせてほしい」
このコメントは晩年の渥美清が残した遺言です。この意志を汲んで、親近者だけで密葬を行ったあとに妻からスタッフに告げられたとのこと。当時は、次回作の制作にむけての打ち合わせが行われていたタイミングだったため、突然の訃報を告げられた衝撃は想像つきません。後日、全国のファンにむけて「寅さんのお別れの会」が開かれました。
渥美清のプロフィール
渥美 清(あつみ きよし、1928年(昭和3年)3月10日 - 1996年(平成8年)8月4日)は、日本のコメディアン、俳優。本名は田所 康雄(たどころ やすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号)。身長173cm、体重70kg[1]。代表作『男はつらいよ』シリーズで下町育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した。没後に国民栄誉賞を受賞。
渥美清は台東区生まれで、「男はつらいよ」の寅さんとおなじく下町出身でした。若いころに戦争による貧困時代を過ごしたのち、俳優としての人生を歩み始めることとなります。肺癌を患い闘病生活を続けながら寅さんを演じきり国民から広く人気を集めたことで、没後に国民栄誉賞を受賞しました。現在でも多くの映画ファンに広く影響を与え続けている存在で、日本を代表する名俳優と言えるでしょう。
渥美清といえば、ファンのあいだで親しまれている特有の笑い方があります。「男はつらいよ」の寅さんは作中で軽やかに笑いを誘ったあと、どこか寂しげな表情を見せています。仏教の世界観に通ずる諦観の雰囲気を匂わせ、その独特な風情も渥美清の魅力のひとつです。表情の背景には、長年にわたって戦い続けることとなったさまざまな病魔との対峙が影響を及ぼしていると言われています。
渥美清さんの代表作「男はつらいよ」
渥美清の代表作「男はつらいよ」では、フーテンの寅こと車寅次郎を演じています。葛飾柴又を舞台に、テキ屋稼業を生業としている車寅次郎こと「寅さん」がさまざまな人情喜劇を繰り広げます。1968年にフジテレビが制作したテレビドラマからスタートし、視聴者からの人気が殺到したことで映画化に発展。1995年まで全48作もの映画作品が制作されており、「寅さんシリーズ」と呼ばれるほど昭和を彩る名シリーズとなりました。
物語の中心は、寅さんの故郷である葛飾柴又で繰り広げられるさまざまな騒動。日本各地を旅しながら渡世の生活を続ける寅さんが、実家の草団子屋に戻るところから物語は始まります。お約束のパターンとして、全国各地で出会った「マドンナ」と失恋をたびたび重ねる恋愛模様も見所のひとつです。
「寅さん」のために私生活の半生を捧げた渥美清
渥美清が「男はつらいよ」の寅さんを演じるようになったのは40歳のときでした。東映のヤクザ映画のパロディとして企画され、フジテレビが制作したドラマ版「男はつらいよ」からシリーズがスタートしました。放送開始はなかなか視聴率に恵まれませんでしたが回を重ねるごとに数字が上がっていき、最終的には20%を越えるまでに成長していきました。
ドラマ版の最終回では、寅さんがハブに噛まれて死ぬという結末でした。しかし、その終わり方に納得がいかなかった視聴者が電話で猛抗議をしたことで、映画作品としてシリーズが続けられることになりました。こうして、亡くなる1996年までの27年間にわたって寅さんを演じ続けることとなりました。
渥美清の知られざる私生活:少年時代
渥美清は、1928年(昭和3年)に現在の東京都台東区に生まれました。新聞記者の父と元小学校教諭の母がおり、一家の次男として育ちました。小さいころから身体があまり丈夫ではなく病弱だったため、さまざまな病気を患っていたとのこと。小学校に入学後、3年と4年次は長期にわたって病欠で苦労しておりましたが、家で1日中ラジオで落語を聞くのが好きな性格の少年でした。
ラジオから流れてくる落語をひたすら聞いて過ごしたことで、自然と落語の内容が頭に入っていた渥美少年。覚えた落語を学校で披露するととても評判がよかったため、病気に負けることなくクラスの人気者として小学校時代を過ごしたそうです。
渥美清の知られざる私生活:戦時中の生活
小学校を卒業し中学校に入学したころ、世間は第二次世界大戦の真っ只中でした。1942年に、渥美少年は学徒動員として板橋にあった軍需工場へと送り出されました。その3年後に中学校を卒業するも悲惨な状況は増すばかりで、東京大空襲によって被災し、自宅がすべて焼けてしまいました。渥美清の命は助かったものの、常に危険や死と隣り合わせの毎日は、少年の原体験のなかに強く印象づけられることとなりました。
しかしながら、このころの生活が結果的に渥美清に大きく影響を与えることとなりました。任侠であった桝谷一家のもとに身を寄せながら、物資を売り歩く担ぎ屋やテキ屋の手伝いをしていた渥美少年。厳しい生活を強いられるなかでも日々明るく、人情でお互いに助け合いながらともに生きていく人びとの様子を見てきました。この少年時代の知識と経験が、のちの「男はつらいよ」の寅さん誕生につながっていきました。
渥美清の知られざる私生活:役者人生の始まり
渥美清が役者の道に進むようになった経緯には諸説あり、とある事件がきっかけとされています。大学に進学するもすぐに退学し、当時は不良グループのリーダーだった渥美清。ある日、金策に困ったため歩道の鎖を盗んで売ろうとするところを警察に補導されてしまいました。そのときの刑事から「お前の顔は個性が強すぎて、一度見たら忘れられない。その顔を生かして、犯罪者になるより役者になれ」と言われたそうです。
その刑事の言葉が頭から離れられなかったからか、役者の道を歩もうと決心。知り合いの伝手を頼って旅回りの演劇一座に入ったことで、喜劇俳優としてのキャリアがスタートしました。最初は舞台の幕を開閉する役目から始まり、しばらく経って出演したチョイ役で舞台デビューを果たしました。
ちなみに渥美清は芸名であり、本名は「田所康雄」という名前でした。「渥美」は愛知県の渥美半島から引用し、初期の芸名は「渥美悦郎」だったとのこと。初期の無名時代のころ、当時の座長が観客にむけて配役紹介をするときに「清」とうっかり誤って呼んでしまったことが「渥美清」の起源とされています。
渥美清の知られざる私生活:浅草「フランス座」時代
1953年には、東京浅草にあるストリップ劇場「フランス座」(現・浅草フランス座演芸場東洋館)に移籍しました。舞台での経験を重ねるごとに徐々に評判を上げていき、ほかの役者とともに頭角を表していきます。そのころに、のちの著名人となる当時無名だった役者仲間と多く出会うこととなりました。
小説家、劇作家、放送作家とさまざな顔を持つ井上ひさしとは、フランス座時代に出会ったとされています。当時の井上ひさしは上智大学文学部に在学しており、フランス座を中心に多数台本を書き始めていました。渥美清を筆頭に実力のあるコメディアンがフランス座に集まっていたため、彼らを生かすコントの脚本を多く手がけていたそうです。
現代で「必殺仕事人」を生み出した早坂暁とも、このころに出会ったとされています。「必殺シリーズ」と呼ばれる時代劇の脚本を担当したことで有名ですが、当時は大学生で、かつ無名で駆け出しの脚本家でした。渥美清とおなじく戦後まもなく桝谷一家に身を寄せていたころからの付き合いだったとのこと。公私混同を嫌う性格の渥美清が心を開く数少ない相手でした。その後も、生涯の友として付き合いが続いたことで知られています。
渥美清とプライベートでも付き合いのあった数少ない相手のなかには、黒柳徹子もいました。黒柳徹子は、渥美清のことを「お兄ちゃん」と呼ぶほど親しい間柄とのこと。テレビ番組「夢であいましょう」で共演した際には、2人のあいだに熱愛報道が持ち上がったことがあるようです。私生活をオープンにしない性格の渥美清にとって、黒柳徹子は大切な妹のような存在だったかもしれません。
フランス座で喜劇役者として邁進していた26歳の渥美清は、このころに深刻な肺結核に襲われることとなります。当時は、結核予防法の制定によってペニシリンを用いた治療が始まったばかりの時代でした。なので、肺結核は「不治の病」というイメージが強く残っていました。不意の闘病生活を強いられることとなった渥美清は、この経験で自身の人生観が大きく揺さぶられることとなりました。
渥美清は、1954年から2年間にわたってサナトリウム(隔離病棟)で長い療養生活を送りました。そこで肺結核の治療により右肺を失ってしまいました。肺活量が格段に下がってしまったことで、以前までの身体をつかった動きのある喜劇ができなくなってしまったのです。後年に肺癌を患ってしまう渥美清ですが、一説にはこのときの右肺摘出が死因のひとつとする声があるようです。
肺結核の療養を終えてフランズ座の舞台に復帰したあとも、今度は胃腸を患ってしまい再び入院生活を強いられました。1年が経ち再び復帰したあとは、飲酒や喫煙、コーヒーまでも止めたと言われています。過剰ともいえる制限を自らに課すほど、日々の摂生を最大限に務めました。このように若いころから病に倒れるほど身体があまり丈夫ではないため、このことも死因につながる要素とされています。
渥美清の知られざる私生活:結婚
私生活を明らかにしない性格だったため、渥美清が結婚していることを知っているひとは、ファンはおろか関係者すらほとんどいなかったとされています。渥美家の家族構成は、妻と子供2人の4人家族でした。渥美清は親族のみで極秘に結婚式を済ませ、仕事関係者はほとんど呼ばなかったそうです。ほぼ唯一、友人代表として芸能記者の鬼沢慶一が招待されていたようですが、渥美清が亡くなるまで公表しませんでした。
また渥美清は新珠三千代の熱狂的ファンだったそうで、自身の結婚の際には「新珠三千代さんごめんなさい。」と謎なコメントを残したそうです。当時の渥美清はほとんどのひとから独身だと思われていましたが、もちろん新珠三千代との結婚は叶うことありませんでした。
渥美清の知られざる私生活:子供
渥美家の長男の名前は「田所健太郎」とのことで、若いころはニッポン放送で働いていたそうです。入社試験の際のエピソードで、渥美清がニッポン放送にあいさつをしに来たことがあったそうです。当時の採用担当者はえらく驚き、社内も大変騒然したようです。
一見、仲睦まじい家族のように思われた渥美家ですが、実際には大きく違っていたようです。2002年に田所健太郎は、渥美清による家庭内暴力(ドメスティック・バイオレンス)が日常的に行われていたことを雑誌の特集内で語りました。「七回忌を前に初めて書かれるエピソード、寅でも渥美清でもない父・田所康雄の素顔」というタイトルで、食器・食事のマナーに突然激高し、激しい暴行を何度も加える様子をつぶさに告白しました。
私生活における渥美清のさまざまな病歴
1936年(渥美清8才)・・・小児腎臓炎、小児関節炎、膀胱カタル等の様々な病を患っていた
1954年(渥美清26才)・・・肺結核で右肺を切除
1974年(渥美清46才)・・・肝臓ガン発症?
1991年(渥美清63才)・・・ガンが肺に移転
これまで先述したように、幼少期から病弱で身体が丈夫でなかった渥美清はたびたび病気に悩まされることになりました。腎臓炎、肺結核、肝臓癌など定期的に大病にかかり、死と隣り合わせの時期が続きました。すべてが直接的な死因ではないにしろ元来の公私混同を嫌う性格が災いし、極限まで身体に負担がかかる状態で寅さんを演じることとなりました。
私生活で再び体調不良になっていく渥美清
「男はつらいよ」が大ヒットシリーズとなり寅さんとして人気絶頂だった1974年、渥美清は肝臓癌を患っていたとされています。13作目の「男はつらいよ 寅次郎恋やつれ」でマドンナが吉永小百合だったころでした。ただシリーズ中盤にかけて、映像ではそこまで体調の悪さは感じられなかったとされています。
「第二十九話はつらかった。渥美さんは元気がなくなって、芝居がはずまないんですよ。まいったな、と思った。二十九作がどこか暗い話になっているのは、渥美さんの体調と関係があるかもしれませんよ。確実に、このころから病気が始まってるんです。」
徐々に体調面の悪さが出始めて、1982年ごろに制作された29作目「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」の撮影中に、渥美清は病院に通い始めていたとされています。しかし、渥美清の性格から通院の事実は周りには伝えていませんでした。しかし監督である山田洋次はその状況を察しており、当時の渥美清について上記のようにコメントを残しました。
渥美清の知られざる私生活:死の直前
「男はつらいよ」が大ヒットシリーズとなったため、癌に侵された渥美清は自身の性格とさまざまな要因から、病気を隠して寅さんを演じ続けていました。そんな渥美清を配慮して立ち演技を減らしたり、合間の休憩はトランクを椅子代わりにして過ごすことが多くなりました。体力が衰えて周りのひとに応えることすら辛くなったことから、寅さんの甥・満男の出番をメインとするなど、体調の悪さがだんだんと映像から伝わるようになりました。
1996年(平成8年)8月4日、午後5時10分に、渥美清はこの世を去りました。死因は肝臓癌からの転移性肺癌でした。大きな死因ではあるものの、もともと丈夫ではなかった身体を晩年まで駆使し続けてことも、ひとつの死因とされています。そして渥美清の公私混同を嫌う性格も、結果的に仕事をセーブできず療養に専念できなかったことにつながり、それらも間接的な死因とする声もあるようです。
渥美清の私生活とおもな死因のまとめ
以上のように、渥美清は最後まで「男はつらいよ」の寅さんを演じ切りました。ただその代償はあまりにも大きく、晩年まで戦っていた癌との痛みを抱えながらこの世を去りました。知られざる私生活には、孤独に立ち向かう渥美清の後ろ姿があったのです。寅さんが時折見せていた笑顔の裏には、喜劇役者として全うした男の生き様が滲み出ているのではないでしょうか。
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