女優としてこれから期待されていた矢先に突然の死を迎えた太地喜和子。大女優としてもその名を馳せ、恋愛遍歴においても有名だったようです。太地喜和子は役者として大活躍し、さまざまな舞台や映画に出演しました。その演技が認められ、数多くの賞も受賞しています。そんな太地喜和子の三國連太郎や志村けんとの噂や、太地喜和子のこれまでの出演作品や恋愛遍歴や結婚についてまとめました。

太地喜和子と三國連太郎との関係や恋愛遍歴まとめ!死因・志村けんのファン?

目次

  1. 太地喜和子の恋愛遍歴や死因のまとめ!
  2. 太地喜和子のプロフィール
  3. 太地喜和子と三國連太郎との関係は?
  4. 太地喜和子の恋愛遍歴
  5. 太地喜和子の死亡事故の真相とは
  6. 太地喜和子と志村けんの関係は!?
  7. 太地喜和子と三國連太郎は相思相愛!

太地喜和子の恋愛遍歴や死因のまとめ!

女優としてこれから期待されていた矢先に突然の死を迎えた太地喜和子。大女優としてもその名を馳せていましたが、さまざまな恋愛遍歴においても有名でした。太地喜和子は役者として大活躍し、さまざまな舞台や映画に出演しました。その演技が認められ、数多くの賞も受賞しています。そんな太地喜和子の三國連太郎や志村けんとの噂や、突然の死に至った死因などを調査しました。また、太地喜和子のこれまでの出演作品や恋愛遍歴や結婚についてもご紹介します。

太地喜和子のプロフィール

・愛称:???
・本名:志村 妙子(しむら たえこ)
・生年月日:1943年12月2日
・現在年齢:48歳没
・出身地:東京都中野区
・血液型:???
・身長:???
・体重:???
・活動内容:女優
・所属グループ:???
・事務所:???
・家族構成:元夫(秋野太作)

太地喜和子の経歴

太地喜和子は、1959年(昭和34年)の高校に在学中、東映ニューフェイスの第6期になりました。東映ニューフェイスは、映画会社の東映が1950年代から1960年代にかけて開催していた俳優発掘ーディションです。太地喜和子は翌年の1960年(昭和35年)に東映と専属契約しました。芸名は志村妙子として映画に出演し始めました。その後、太地喜和子は東映を離れ、1963年(昭和39年)に俳優座養成所に入団します。

太地喜和子は「欲望という名の電車」での杉村春子の演技に感銘を受け、1967年(昭和42年)に文学座に入団しました。1968年(昭和43年)舞台の「タンゴ」で初舞台デビューしました。太地喜和子の初主演映画となった1967年(昭和42年)の映画「花を喰う蟲」での演技が認められ、1968年(昭和43年)映画「藪の中の黒猫」で妖怪の猫の役を演じました。この大胆な体当たりの演技で一躍脚光をあび注目されました。その後は、舞台や映画で女優として、頭角を現していきます。

1978年(昭和53年)に放送されたテレビドラマの「白い巨塔」で花森ケイコ役や、1979年(昭和54年)の「近松心中物語・それは恋」などの演技が高い評価を受け、杉村春子の後継者と呼ばれ、昭和の名女優と言われています。太地喜和子の主な舞台出演作として「あわれ彼女は娼婦」「ハムレット」「飢餓海峡」「好色一代女」などがあります。映画では「男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け」「火まつり」などさまざまな舞台や映画の作品に出演しています。

さまざまな作品に出演している太地喜和子は、その演技を認められさまざまな賞も受賞しています。主なものに、「キネマ旬報賞」の助演女優賞、エランドール賞、紀伊国屋演劇賞、日本シェークスピア賞の女優賞、ゴールデン・アロー賞の特別賞、芸術選奨文部大臣新人賞などです。

太地喜和子と三國連太郎との関係は?

20歳差の太地喜和子と三國連太郎の関係はとても有名ですが、2人は一体どのような関係だったのでしょうか。2人は会った瞬間から大恋愛に発展したようですが、その交際期間は長くは続かなかったようです。既婚者で子持ちである三國連太郎と、まだ19歳だった太地喜和子のどのような関係だったのでしょうか。さまざまな恋愛遍歴を持つ2人の関係について調査しました。

太地喜和子が三國連太郎に恋

太地喜和子はこれから女優として役者の仕事に専念しようとしていた19歳の頃、当時39歳で既婚で子持ちである三國連太郎と知り合いました。太地喜和子は三國連太郎とすぐに恋に落ち、恋愛に発展したそうです。年差はなんと20歳の恋愛ということになります。2人はどのような恋愛をしたのでしょうか。

撮影に押し掛けたことも

1962年1年から1962年12年に週刊朝日に連載された、水上勉著書の推理小説を映画化した「飢餓海峡」の撮影中で北海道にいた三國連太郎を追い、太地喜和子は入団していた俳優座をやめて北海道まで押しかけたというエピソードもあるようです。わざわざ北海道まで三國連太郎を追うとは、かなりの大恋愛だったことがわかります。

三國連太郎を愛するあまりに、左幸子が演じた杉戸八重に嫉妬し、数ヶ月で北海道から帰り、再び女優としての道を選んだそうです。後に、三國連太郎と太地喜和子は雑誌で対談をしますが、その対談の場でも杉戸八重への嫉妬について語ったそうです。

猛アプローチの末同棲も数か月で破局

太地喜和子が三國連太郎に猛アプローチした結果、太地喜和子は三國連太郎と同棲を始めます。三國連太郎は妻子を家に置いたままの状態だったようです。しかし、半年ほどで三國連太郎が逃げてしまったことで、2人の恋愛は破局という結末を迎えました。大恋愛にも関わらず、意外と早く破局してしまったようですね。

破局の理由は?

破局から10年後、太地喜和子と三國連太郎の2人が女性週刊誌において対談したそうです。その時、太地喜和子が三國連太郎にどうして逃げたのかと尋ねたところ、長い沈黙のあと、三國連太郎は「十年目にして率直にいうけど…あなたのからだにひれふすことがイヤだった…そういうことです。あのころはぼくも若かったし、やり盛りだったから毎日でもできた。だけど、それは未来永劫につづくわけじゃない」と語ったそうです。この時、太地喜和子は三國連太郎に再会できたこと喜んでいたそうです。

太地喜和子は破局後芝居にまい進

太地喜和子が大恋愛をした結果、三國連太郎が逃げてしまうという失恋に終わってしまった恋愛でした。太地喜和子は失意のどん底だったようですが、役者の仕事をすることで芝居に救われる形となり、それ以降は女優としての道を突き進んだようです。

実は相思相愛だった

さまざまな恋愛をしてきた太地喜和子は後に、「本当に愛したひとは三國さんだけ」と公表したようです。そして、さまざまな恋愛遍歴をもち、さまざまな女優と噂になった三國連太郎も「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。太地喜和子さんだけ。」と語っていたようです。たった半年で破局を迎えた2人でしたが、実は相思相愛だったようです。

太地喜和子の恋愛遍歴

太地喜和子は三國連太郎との大恋愛をはじめ、さまざまな恋愛遍歴を持っているようです。役者として大活躍していましたが、女性としても色っぽく魅力的な太地喜和子はさぞかしモテたでしょうね。色っぽく見える太地喜和子は実はさっぱりとした性格のようですので、そのギャップもまた魅力の一つなのでしょうか。そんな太地喜和子は誰とどのような恋愛をしてきたのでしょうか。太地喜和子の恋愛遍歴を紹介します。

太地喜和子と秋野太作の短い結婚生活

太地喜和子は俳優座で同期であった秋野太作と結婚しました。しかし、太地喜和子と秋野太作の結婚は長く続くことはありませんでした。破局の原因は不明ですが、2人の結婚生活は1年弱で終止符を打ちました。秋野太作はその後、元宝ジェンヌの温碧蓮と再婚をしたようです。

秋野太作との離婚後は独身を貫いた

太地喜和子は秋野太作と離婚後は、「私はサービス精神がある限り、見ている人にこの人は帰ったら所帯があると思わせてはいけない」というポシリーのもと、生涯結婚することはなく、独身を貫きました。

太地喜和子は中村勘三郎と恋仲に

1975年の太地喜和子の主演舞台「桜吹雪 日本の心中」を19歳の中村勘三郎が観にきていました。舞台の決め台詞「女は桜、日本です」を中村勘三郎を観ながら言ったというエピソードがあるようですが、太地喜和子は足早に帰ろうとする中村勘三郎を引き止め、その後2人はお酒を呑みながら演劇について熱く語り合い、その内男女の関係になっていったそうです。

中村勘三郎とは喧嘩が絶えなかった

太地喜和子の自由な男性との関係に、中村勘三郎が嫉妬することが多く喧嘩が多かったようです。ある日、太地喜和子は中村勘三郎に浮気をしているのではないかと疑われ、居酒屋で口論となったようです。その時、中村勘三郎に突き飛ばされた太地喜和子はテーブルに頭を打ち付け大出血をしてしまったそうです。翌日に開催された制作会見に、太地喜和子は頭に包帯を巻いた状態で現れ、周囲を驚かせたそうです。

太地喜和子と中村勘三郎の破局

太地喜和子と中村勘三郎は、出会って3年ほど経ったころ、あまりに太地喜和子にのめり込んでくる中村勘三郎の歌舞伎役者としての未来を案じ、太地喜和子自らが2人の関係を終わらせたそうです。

太地喜和子の死亡事故の真相とは

さまざまな恋愛遍歴で浮名を流し、女優としても大活躍していた太地喜和子でしたが、女優として期待が高まっていた矢先に突然の死を迎えました。太地喜和子は緑内障を患っており、失明するのではないかと自分の目について案じていたこともあるようです。まだまだこれからの活躍が楽しみであった太地喜和子に、一体なにが起きたのでしょうか。死因についての真相を紹介します。

太地喜和子の突然の死

1992年10月に「唐人お吉ものがたり」の巡業で静岡県伊東市を訪れていた先で太地喜和子は、突然の死を遂げてしまいました。活動が期待されていた矢先の突然の死でした。死因は一体なんだったのでしょうか。

活躍が期待されていた矢先の事故死

図らずも、太地喜和子の遺作となってしまった「唐人お吉ものがたり」を演じるにあたり、太地喜和子は役作りのために1年以上もの月日をかけ役作りをしていたそうです。そして、太地喜和子が衝撃を受けたという、杉村春子が演じた「欲望という名の電車」に自らもヒロインとして期待されていた矢先のできごとでした。

太地喜和子の死因は?

太地喜和子は、文学座の巡業公演だった「唐人お吉ものがたり」で静岡県伊東市を訪れていたそうです。公演後、スナックで飲んでいた太地喜和子は「海が見たい」と言い、午前2時すぎ、太地喜和子の要望通りスナックのママが運転する車で海へ向かったそうです。太地喜和子は桟橋から海を眺めていたそうですが、雨が降ってきたため車に戻ったようです。

その車は向きを変えるためか、後退をしたようですがその際に誤って橋から転落してしまうという事故が発生しました。同乗者は泳いで助かったようですが、太地喜和子は泳げない上に深酒をしていたのが原因で、生還することができませんでした。このような事故が死因で太地喜和子は還らぬ人となってしまいました。

同乗者には外山誠二と大滝寛がいたようですが、泳いで脱することができたようです。佐藤陽子が駆けつけたそうですが、「死に顔は眠っているようだった」と語っていたそうです。このような事故が死因となってしまった太地喜和子と親友であったカルーセル麻紀は、自身の舞台で「喜和子!!」と叫びながら号泣するという一面があったそうで、それはワイドショーなどで報道されたようです。

突然の訃報に中村勘三郎が号泣

太地喜和子が事故死したという訃報を受け取った中村勘三郎は、大号泣したとの噂があります。過去に愛した人の突然の死にとても悲しんだようです。桟橋から車ごと落ちて、泳げなかったことが原因で事故死してしまうという死因で、これから活躍が期待されていた役者の死はとてもいたたまれないですね。

太地喜和子と志村けんの関係は!?

女優として舞台や映画で活躍し、大女優としての道を邁進していた太地喜和子。役者として演技が認められ、数々の賞を受賞するほどの役者でした。そんな太地喜和子は実は志村けんの大ファンであることを公言していたそうです。太地喜和子は事故で亡くなる前、大ファンである志村けんのコント番組に出演したことがわかりましたのでご紹介します。

太地喜和子は志村けんの大ファン

太地喜和子は舞台や映画で大活躍し、大女優として名を馳せていました。そしてさまざまな恋愛遍歴においてもその名を馳せていました。そんな太地喜和子は志村けんの大ファンであることを公言していたそうです。

太地喜和子はコントに出演

大女優である太地喜和子は志村けんの大ファンであることを公言し、その縁があり志村けんのコント番組である「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」や「志村けんのだいじょうぶだぁ」に出演し、コントに挑戦していました。大女優がコントに挑戦するとあって、注目度も高かったようです。

志村けんの番組で追悼企画も

太地喜和子が事故で亡くなった際は、急遽「志村けんのだいじょうぶだぁ」で太地喜和子の追悼企画が放送されたそうです。志村けんのファンを公言し、太地喜和子は志村けんとも一時噂があったようですが、その後、不慮の事故が死因となり、残念ながら還らぬ人となってしまいました。

太地喜和子と三國連太郎は相思相愛!

デビュー当時から女優として注目され、三國連太郎とは大恋愛の末、わずか半年という期間で破局を迎えてしまいました。しかし、のちに2人の発言から2人が相思相愛であったことが判明しました。数々の恋愛遍歴を持っている2人でしたが本当に愛したのは1人だけのようです。太地喜和子はその後もさまざまな遍歴を遂げながら女優として活躍します。

ヒロインとして期待されていた矢先に不慮の事故が死因で還らぬ人となってしまいました。生涯、女性として女優として独身を貫き、役者としての道を邁進していた太地喜和子の死因や遍歴をご紹介しました。

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