浜田雅功の出身高校が半端ないというウワサがあります。その名も日生学園ですが、知る人ぞ知るものすごい高校とのことですが、いったいどんな高校なのでしょうか?その実態と浜田雅功の高校時代でのエピソードを交えながらどんな高校だったか調べてみました。

目次
浜田雅功のプロフィール
本名 浜田雅功
ニックネーム 浜ちゃん、ダーハマ
生年月日 1963年5月11日(54歳)星座 牡牛座
出身地 兵庫県尼崎市
血液型 A型
身長 165cm 体重50kg
バスト87cm ウェスト75cm ヒップ87cm
靴サイズ25cm
出身 NSC大阪1期生
コンビ名 ダウンタウン
グループ名 H Jungle with t(1995年 - 1996年)
相方 松本人志
芸風 漫才・コント(ツッコミ)
立ち位置 右
事務所 よしもとクリエイティブ・エージェンシー
趣味 野球・ゴルフ
浜田雅功の通っていた高校ってどこ?
浜田雅功の出身高校は「水曜日のダウンタウン」で明らかになった通り日生学園第二高等学校(現在の青山高等学校)です。ご存知の方もかなりおいでと思います。三重県津市白山町八対野の山奥にある高校で、あることでとても有名な高校です。それは徹底したスパルタ教育です。ではそれはどんな高校で、どんな生活の実態だったのでしょう?
浜田雅功の出身高校は監獄みたい?
日生学園の高校は非常に厳しさやスパルタ教育で知られており、完全全寮制でその生活の実態は、部屋は複数人がおり、起きる時間から寝る時間まで、とにかくすべての流れが決まっていてそれを破ることは許されません。
また、その他にも私語厳禁で、外から帰ったら身体検査があり、当然食事も全員が同じものを食べ、お菓子はいっさい持ち込み厳禁でした。制服はもちろん、靴や靴下まで学校指定のものが決まっていました。
当時の制服は普通の制服と帰省用の制服があり、その制服は男子も女子も下はズボンで、上は薄いブルーのYシャツに、ネクタイ、上着は短い特攻服のようなものを着ていました。
帰省服は下はズボン(女子はスカート)Yシャツは同じ、普通のブレザーに銀のネクタイと普通の高校のようなものでした。生徒たちは何もかもが同じ条件のようで、その厳しい生活ゆえかいじめや体罰の横行する高校でした。浜田雅功の入学した高校はまさに監獄のような高校ですね。
ダウンタウン浜ちゃん、今田耕司が通ってた日生学園て高校、すごすぎ…
— Satoshi (@sato_shimohira) August 8, 2017
今は変わったって聞くけど、大空と大地の中でを歌ってるあたり、そんなに昔でもないような
何でここに行こうって思ったんだろうhttps://t.co/UsPV5iYJy7
日生学園の動画拝見しましたけど思っていた以上に強烈で震えました()
— こいっす (@koissu_xxx31) May 28, 2017
浜田雅功の出身高校の日生学園はスパルタ高校?
浜田雅功の出た日生学園の高校の教育理念は「全力」でだそうで、生活していく中で常に大声を出したり、精一杯身体を動かすなどしなければならず、1991年前後までスパルタ教育で有名でした。
日生学園厳しすぎてやばいww
— つっちー@進路迷人 (@tutti_xyz) August 9, 2017
とにかく厳しい生活でしたが、なんと浜田雅功は当時かなりやんちゃだったらしく、浜田雅功の自宅を離れて厳しいスパルタ教育の高校に入学すれば間違いないだろうとの事で中学時代の教師の勧めもあり、浜田雅功のお父様が高校への入学を決めたんだと言います。ちょっとやりすぎな感じもしますね。
子供の頃、あまり悪いことしてると山の中の学校に入れるぞってよく祖父に脅されてたけど、今思うとあれは日生学園のことだろうな。
— 仁佐俣信朗 (@n0t5ib) August 10, 2017
浜田雅功の高校の偏差値は?学費は?
当時の浜田雅功の出身高校である日生学園の高校の気になる偏差値の実態は39です。「39」?あまり聞いたことのない数字ですよね。名前さえ書ければ入試に通ると言われていたのもなんとなくうなずけます。
そういったことから厳しい生活の実態を知るや日生学園の高校に入学する生徒のほとんどが親や教師たちの手に余るような生徒が多かったそうです。浜田雅功はどうだったのでしょうね。
また、学費は入学時納入金 (入学金 150000円 入寮金 200000円 施設設備費 200000円) 計 550000円、1か月の学費 (授業料 22000円 教育充実費 9600円 生徒会費ほか 1400円) 計 33000円 その他1か月の生活費関係(寮費 25000円 食費 40950円) 計 63850円がかかり、当時としては高い方であったようです。浜田雅功のお家生活の実態は裕福だったのでしょうか?
答えはそうでもなかったようです。浜田雅功の言うには万博(1970年)まではかなり生活は良かったといいます。浜田雅功の父親は大阪市でペンキ屋(大阪万博にてソ連館のペンキ塗りをしたペンキ屋)に勤めており、父・憲五郎、母・信子の間に生まれ、浜田雅功が小学5年の時に父が会社から独立し、尼崎市でペンキ屋を開きました。
親友でもある松本人志や高須光聖曰く、浜田雅功の実家の生活はひどく貧乏だったらしく、浜田雅功にとってよほど親しい友達でないと家に上げてもらえなかったといいます。その実態は住んでいたアパートもかなりボロくて、ある時浜田雅功の部屋の天井が抜け二階に住んでいた韓国人が落ちてきて、赤ん坊であった浜田雅功を抱いた父親の肩をかすめたそうです。
そのためもう少しで浜田雅功も死ぬところだったと語っています。浜田雅功の父親は借金の連帯保証人になり、借金を背負うことになったことから、取り立てのヤクザに拉致監禁されたこともあったそうです。
日生学園の高校の一日
普段の一日のスケジュール
浜田雅功の在籍していたスパルタ教育で有名な高校の詳しい生活の実態は、朝は4時に起床し、点呼から始まって朝の身だしなみをととのえることと自室の雑巾がけと道場と呼ばれる体育館の雑巾掛けをし、それが済むと集団登校、国旗、校旗掲揚を行い、やっと食堂に入って朝食をとります。
その後校歌(といっても10曲くらいあったらしい)を歌い、授業は午前4時間、昼食、午後1時間の計5時間だそうです。また集団下校、集団マラソン(約6キロ)をした後に自習、階ごとに順番にお風呂に入ります。食堂前に集まり国旗・校旗降納、間食として牛乳とアンパン等のパンが出るそうです。
こういった生活の中で、自由時間はもちろんナシで、授業の休み時間、食事中、含め24時間私語禁止で、さらに新聞、TV、雑誌、ラジオ、一切の娯楽も禁止だったとのことです。世間の情報は頭を丸める時に下に引く新聞紙だけだったそうです。 これが浜田雅功の真っ暗な高校時代であったそうです。
日生学園第二高校生徒「かずと~かずと~かずと~かずと~」 pic.twitter.com/fdmUESBXrZ
— SqeR SpiredはL.A.にいる (@splre) April 7, 2017
日曜のスケジュールと寮生活
日曜の生活は朝7時起床でよかったそうですが、日課として点呼、洗顔、清掃、朝食、校歌等歌う、自習、昼食(日曜の昼食は食堂ではなくパンが配られます)また自習ですが、大抵は短い昼寝をさせてもらえます(短いと仮眠、長めだと誤睡)。自習、夕食、自習、間食のパン、自習、消灯となります。そういった生活では、浜田雅功も含めて自由時間はやはりなかったそうです。
浜田雅功の高校の変わった決まり
浜田雅功の出身高校、日生学園での実態は、どんな雨や雪でも雨具を使うことは禁止でした。また、学校に住み込みで働く先生を「教師」、通ってくる先生を「講師」と呼びます。
教師の生活の実態は大人である教師もみんな頭を丸め、生徒よりも1時間早い3時に起床し、生徒が集まる前に体育館に集まって朝の決まり事をこなし、場合によっては教師も教頭から体罰をうけることもあったといいます。
また、浜田雅功を含めて生徒のほとんどが不良だったため、武道有段者などが多かったようです。また、学校では休み時間であってもトイレ以外は席を離れてはいけなく、休み時間といえども私語は厳禁でした。浜田雅功が話している通り、毎日使うトイレの掃除の際は、これを素手で洗い、こびりついた汚れは爪でこすってきれいにしたそうです。
入試は名前だけ記入できれば合格出来たといいますし、よほどのことでないと病院に連れて行ってもらえることはなく、38度を超えて初めて休めて、40度の熱が出ても病院に連れていってもらえなかったとのことです。マラソンの足の角度は90度。
修学旅行、学園祭、体育祭などの行事は一切ないなど、とにかくありとあらゆることに決まり事があり、自由はないと言って過言ではなかったようです。スパルタ教育の実態を知るにつれ、恐ろしい高校であると分かります。
高校生なのに帰省や面会が厳しい
日生学園の高校は全寮制のため、スパルタ教育の生活から抜け出せる帰省を楽しみにしていましたが、帰省は年に2回、面会は月に1回と決まっていました。帰省する数日前から、「あと何日で下界(外の世界のこと)だ」「あと数時間で下界だ」などと指折り数えていたそうです。
2日前には頭を丸め、当日は4時に起床します。いつも通りの点呼や清掃などを済ませ、制服に着替えるところを帰省服に着替えて朝食が終わるとマイクロバスに乗って最寄り駅までいきます。駅でいったん集合してから解散し各自家へと向かい、期間は夏休みで3週間ほどで、冬休みが20日ほどだそうです。
しかし、休みも数日になると、スパルタ教育の高校に戻ると思うと、またもや「あと何日」「あと何時間」というカウントダウンを始めてしまうといいます。
浜田雅功の高校では脱走者続出?
当然浜田雅功も入っていた寮では一部屋に最高48人が一緒になり、そこでは1年生~3年生までが同じ部屋で過ごしていました。
それによって1年生は常に上級生に気を使わなければならず、例えば、食事は上級生が口をつけるまで食べることを許されず、洗濯物は1年生がたたんで衣装ケースにしまったり、布団の上げ下ろしも1年生がしなければなりませんでした。ただ、逆に上級生は下級生の面倒をみる責任もあり、下級生に何か不備があると上級生にもペナルティもありました。
そういったことからか、常に先輩や教師の言うことには絶対服従でした。もし先輩・教師に従わなければ体罰等は日常茶飯事で、時にはパイプ椅子で何発もなぐられたり、一日中正座させられたりさせられたそうです。
その他にもあらゆるストレスからか陰湿ともいえる体罰やいじめが行われ、それによってケガをしても手当てすら許されませんでした。そんな環境ですので、脱走や時には自殺に発展してしまうこともよくあることだったそうです。
日生学園のスパルタ事件って何?
浜田雅功の在学していた1970年から1980年代にかけて高校内での暴力事件や脱走、ついには自殺者や原因不明の死亡事件がありました。1985年には教師による学園の高校についての告発があり、週刊誌を賑わせることになりました。
そこで国会議員による国政調査が行われ、参議院文教委員会及び決算委員会で報告され、三重県からも日生学園に対して行政指導が行われました。2013年には学園内でのいじめや先輩からの暴力が問題になり、多くの退学者が出たとのことです。こんな高校で浜田雅功は青春時代を過ごしていたのです。
浜田雅功が副学寮長だったってホント?
浜田雅功が副学寮長だったというのは事実のようです。副学寮長と言えば、その実態は全ての学生の見本になるような人でなければならないので、浜田雅功はかなりすごい人ということになるそうです。そんな浜田雅功もかなり辛かったらしく、何度か脱走を試みたようです。お金持って迎えに来てくれと現在の相方の松本人志のところへ連絡して、実際に迎えに行ったそうです。
浜田雅功の高校時代のエピソード
先ほどもお話しした通り、浜田雅功の在籍していた高校である日生学園の高校では実家に帰るのは年に2度、夏休みと冬休みの一定の期間しか許されません。また、日生学園ではテレビもラジオもなく、完全に外部の情報が遮断されていました。
そのため、実家に帰ると驚くことばかりだったそうです。現在の浜田雅功の相方である松本人志の家にきては、アクアフレッシュの歯みがき粉のことを「なんや、歯みがき粉が三色になっとるぞ」といってみたり、シャネルズのことを「顔の黒いヤツがでとるぞ」と驚いていたといいます。
浜田雅功の高校の出身者は?
今田耕司
浜田雅功の後輩にあたる日生学園に在籍していた中で、一番有名なのがお笑いタレントの今田耕司ではないでしょうか。しかも今田耕司は日生学園からの脱出を試みていたのです。一年生の秋であるその日、消灯を確認すると今田耕司は一階のトイレの窓から外へ逃げ出しました。
日生学園の高校は生徒が逃げ出すと警報が鳴るようになっていたので、すぐに先生にバレてしまいましたが、とにかく真っ暗な中を逃げに逃げ、二山を越して駅にたどり着くと下着に隠してあった千円札で電車にのって何とか実家までたどり着きました。
しかし、先生から電話があり「退学の手続きをするので、一度学校に来てください」と実家へ連絡が入りました。そこで退学の手続きをしようと日生学園へ行ったところ、教師は「戻るというまで殴り続けます」と言い、実際に殴ったそうです。5、6発殴られたところで耐えられなくなり「戻ります」といってしまいました。
それでも、冬休みで実家に帰ったところで結局退学したそうです。その後清風高校へ編入し卒業しています。
山口賢一(プロボクサー)
日生学園の高校では硬式野球部に在籍しており、2年時にはエースで県でベスト4に入ったといいます。卒業後ボクシングを始めたようです。
千葉和彦(プロサッカー選手)
日生学園の高校の出身者ではあるものの、入学した頃は以前ほどのスパルタではなかったようですが、他の学校と比べると以前の名残があり、他校よりは厳しかったようです。
鮫島秀旗(元プロ野球選手)
元ヤクルトスワローズのキャッチャーで、1991年に日生学園の高校からドラフト6位でヤクルトに入団しています。
現在の日生学園は浜田雅功の頃と違う?
現在では校名も青山高等学校(旧・日生学園第二高等学校)桜丘高等学校(旧・日生学園高等学校、旧・日生学園第一高等学校)と浜田雅功の頃とは違う高校名に変更され、2000年代後半からは国立大学や難関私立大学を目指すように方向転換し、2012年には実際に国立や難関私立大、医歯薬大学合格コースが設置されたそうです。
そして、現在では裕福な家庭の生徒も多く、修学旅行では海外に行くなど、だいぶイメージも変わったようです。
日生学園第一高校の旧制服は中々なデザインで、中学の進路指導資料を見て度肝を抜かれたもんだった。 pic.twitter.com/Yeg71SNi5A
— すらくちゃん (@srak_chan) August 19, 2017
高校時代の厳しさが現在の浜田雅功を作った?
このように浜田雅功の出身高校は恐ろしいほどのスパルタ高校だったようです。浜田雅功と同じ日生学園の高校の出身である今田耕司は浜田雅功のことを「副学寮長であった浜田はすごい人で、吉本に入った後も、こういった経験からか風邪薬を間違えて買ってきただけでドつかれた」と言います。
浜田雅功は吉本に入った後も上下関係に厳しく、後輩芸人たちから恐れられていたという浜田雅功ですが、そういった怖いもの知らずのところが、誰が相手でも頭をはたくなどというスルドい突っ込みを入れる現在の芸風が生まれたのではないでしょうか?日生学園の高校のような厳しい環境での経験も、自分自身の力にしていく浜田雅功はやはりすごい人なのですね。
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