松田優作の死因は膀胱癌だった?壮絶な闘病生活から遺作まで調査

松田優作というと未だにCMなどに起用され、人気を博している俳優ですが、その死因は膀胱癌だったそうです。壮絶な人生と壮絶な闘病生活を送った松田優作の魅力は衰えることを知りません。そのカリスマともいえる松田優作の死因について改めて調査していきたいと思います。

目次

  1. 松田優作の死因の検証
  2. 松田優作のプロフィール
  3. 松田優作の死因
  4. 【松田優作の死因】生い立ち
  5. 【松田優作の死因】俳優へ
  6. 【松田優作の死因】結婚
  7. 【松田優作の死因】暴力事件
  8. 【松田優作の死因】復活
  9. 【松田優作の死因】ハリウッドと闘病
  10. 【松田優作の死因】膀胱癌という病気と松田優作
  11. 松田優作に訪れた死
  12. 松田優作の恐れた差別と死因
  13. 俳優・松田優作の死因

松田優作の死因の検証

松田優作。「伝説の俳優」と言われるうちの一人である松田優作です。40年の短すぎる人生を全身全霊で、最期まで「俳優」であることをやめようとはせずに駆け抜けた松田優作。その生き急ぐように走った40年を振り返りながら、その死因について調べていきたいと思います。

松田優作のプロフィール

生年月日:1949年9月21日
出生地:山口県下関市
身長:183cm
血液型:A型
活動期間:1972年~1989年

松田優作の死因

なぜ松田優作は死因となる膀胱癌の手術を拒み、真っ直ぐに死に向き合うことを選んだのでしょうか?初めから治療を拒否すればそのまま「死」を意味し、積み上げてきた俳優としての生き方も消えてしまうのは分かっていたはずです。それなのになぜ?そのヒントは、それまでの松田優作の人生に隠されているのではないかと思われます。その人生を子供頃から遡ってみたいと思います。

【松田優作の死因】生い立ち

1949年9月21日、松田優作が生まれたのは山口県下関市でした。それは日本人の父・大村と韓国人の母・かね子の間で、正式には認められない、いわゆる愛人の子として生まれました。父・大村は長崎出身で、母・かね子は知りませんでしたが、長崎には妻子のある身だったのです。180cmもある大男だったといいますから、185㎝あったという松田優作は父・大村に似たのでしょうね。

「松田」の名前は、母・かねこの最初夫で、戦死した松田武雄からきています。松田武雄とかねこの間には、東と丈臣という男の子がいました。優作の幼少期は事情は知らなかったようですが。また、戸籍の上では父・大村との関係の為か、届け出が遅れ、1950年9月21日が出生日になっています。人によって享年39歳と述べる方がいますが、それはこの届出の遅れからくるものです。

母・かね子が松田優作を身ごもると大村は長崎に逃げ帰ったといいます。小学生になった松田優作は、子分を引き連れて歩くガキ大将で、教師たちの手を焼かせたそうです。まだ高校生であった松田優作は母親の「アメリカで弁護士になれ」という希望で高校を2年で中退しアメリカで国籍を取るべく叔母夫婦を頼りアメリカに渡ります。

現地の高校に入学しますが、言葉の壁、文化の壁にぶつかり、母・かね子には言わずに退学して日本に帰国しました。その後、夜間の高校や大学にも通っていますが、1972年に俳優業に専念するため、大学は中退しています。

【松田優作の死因】俳優へ

1969年~1971年エキストラとして芸能界へかかわっていましたが、1972年文学座付属演技研究所十二期生となり、そこで、阿川泰子、中村雅俊、桃井かおりらと出会います。

1973年、「太陽にほえろ!」第35話で市役所福祉課職員役で出演した後、柴田純(通称・ジーパン)刑事役として1974年までレギュラー出演します。そこから大人気を博すようになり、また、「太陽にほえろ!」での演技、今現在でも語り継がれる「なんじゃこりゃ!」という殉職シーンで話題をさらいました。

その後はテレビ、映画に多く出演するようになりましたが、そんな中、本名は金優作で、普段は松田優作という芸名を使っているので知られていなかったが、自身が在日韓国人であることが分かったら、みんなをガッカリさせてしまうのでは?という思いから、帰化し、日本国籍を得ると正式に松田優作が本名になったのです。ずっとコンプレックスだったのですね。

【松田優作の死因】結婚

1975年 (昭和50年) 9月21日、同じ劇団の松田美智子と結婚します。長女・紗綾を儲けるが、『探偵物語』で出会った熊谷美由紀との不倫が原因で、1981年12月24日のクリスマスイヴに離婚しました。しかし、別れる前には非常に悩み、自殺を考えたそうです。思うより真面目だったのですね。

しかし、「自分が死ねば、親兄弟が悲しむ上に、紗綾を自分と同じ父親のない子してしまう。死ぬ気になれば、何でもできるはず。」と思い直しました。そして10月、美智子との家をでて、美由紀のマンションへと移り住み、離婚届けを美智子に送ります。一つだけ、離婚しても紗綾の名前が変わることを気にして、「松田」姓を名乗るようにと手紙を添えました。

美由紀には当初「お互い既婚者だし、自分には娘がいるから離婚はできない」と述べていましたが、あきらめきれない美由紀は、松田優作の自宅に乗り込み、美智子と紗綾の前で「結婚できなければ死んでやる!」と叫びながら手首を切って自殺未遂までしたといいます。

美由紀については「今まで見たことが無いエキセントリックな女だ」「この女から離れられない」と松田優作は思ったといいます。1983年、長男である龍平が生まれると、美由紀と結婚します。

【松田優作の死因】暴力事件

1976年、松田優作は『俺たちの勲章』の鹿児島ロケ打ち上げ中に、勘違いから19歳の予備校生に何人かの共演者とともに暴力をふるい、全治3カ月の大けがをさせ、警視庁新宿警察署に逮捕されました。松田優作は自らの非を認め、示談が成立します。示談金と慰謝料を合わせて90万円を支払いました。一年間テレビでの活動を自粛することになりました。

【松田優作の死因】復活

そして、東京地裁にて懲役10カ月、執行猶予3年という有罪判決を受けました。1976年5月、東映『暴力教室』 がクランクインし、復帰第一作目になりました。事件から1年経った1977年、石原プロの刑事ドラマ『大都会 PARTII』でテレビでの復帰も果たすことになります。この出演で松田優作は石原プロに誘われ、断ったため石原プロでは松田優作の名前は禁句となりました。

角川映画『蘇える金狼』、テレビドラマ『探偵物語』で主演を務めるなど次々に今でも語られる代表作に出演していきます。この辺りはアクション俳優での仕事がメインでしたが、1981年には泉鏡花の文学作品『陽炎座』や『ヨコハマBJブルース』に出演し、それまでのイメージを変え、演技派俳優と言われるようになりました。

【松田優作の死因】ハリウッドと闘病

1988年、時代映画『華の乱』で吉永小百合と共演するが、その頃から尿が出にくくなり、お腹がパンパンに張るようになりました。死因となる膀胱癌でした。ここからが松田優作の死因となるガンの苦しい闘病生活がはじまりでした。1988年9月5日、遺作となる『ブラック・レイン』の主要キャストである佐藤役の最終オーディションがホテルオークラのスイートルームで行われました。

このオーディションには200人を超す25歳から40歳前半までの俳優が集まったと言いますが、最終オーディションでは全員が日本人の名の知れた俳優たちが残っていたそうです。中には緊張のあまり声や手などが震えてしまう人もいたそうですが、死因である膀胱癌での死を控えた松田優作は物怖じすることもなく堂々と部屋に入っていったといいます。

監督のリドリー・スコットはすぐに「早速だが、主演のマイケル・ダグラスとのセリフのやり取りをしてみてくれ」と言いました。演技が終わるとリドリー・スコットは「Great!」と声をあげました。そして、「彼だ!これでカメラをまわせるぞ。いまからでも撮れる」と叫んだそうです。こうして松田優作の遺作『ブラック・レイン』はクランクインを迎えます。

1989年には遺作であるハリウッド映画『ブラック・レイン』に主役のマイケル・ダグラスを飲むほどの鬼気迫る怪演を見せたことから、ハリウッドでも絶賛され、オファーが次々と舞い込みました。生前「これから役者をやっていくには、日本だけなんて考えちゃだめだぜ。ハリウッドにもどんどん出て行ける役者にならねえとな」と述べており、その夢を叶えたのです。

しかし、松田優作の死因である膀胱癌の病状は末期的になっていましたが、医者のすすめる外科手術は拒否して1989年、遺作『ブラック・レイン』の撮影をしながらの死因となるガンの闘病生活は大量の痛み止めを使い、激しい痛みに耐えながら死因であるガンであることを撮影関係者では安岡力也以外には誰にも知られずに演技を続けるというものでした。

【松田優作の死因】膀胱癌という病気と松田優作

死因となる膀胱癌の症状としては、肉眼でも分かる血尿や頻尿、尿意切迫感、排尿時痛や下腹部の痛み、背中の痛みなどが起きます。松田優作の死因である膀胱癌は膀胱炎と症状が似ていますが、抗生剤では治らないのが特徴です。松田優作の場合は死因である膀胱癌だけでなく腰の骨に転移が見られたことから、立つ・歩く・座るが困難になり、痛みがかなり強かったことと思います。

その死因である膀胱癌で最初に尿が出なくなり受診した際には、血の塊が尿道を塞ぎ、下腹部も大きく腫れていました。膀胱洗浄による尿排出の応急手当が行われ、内視鏡によって膀胱を確認すると、3か所の血管が切れて出血し、死因となるガンと思われる潰瘍が一面に広がっていたといいます。

検査結果から考えて死因である膀胱癌によりすでにかなりの痛みがあったはずです。検査の結果、ガンが膀胱の外側の壁にでき、膀胱の外側から内側に広がり、骨盤へとかなりのスピードで広がっていくケースでした。1年半前、他の病院で血尿でかかった時には後に死因となる膀胱癌でなく膀胱炎との診断を受けていたそうです。それが松田優作の運命の分かれ目だったのかもしれません。

治療法としては死因となった膀胱の全摘、骨盤内に広がったガンをも取り除くという外科手術しかありませんでした。進行状態は悪性度の高いT4。この状況では手術をすれば人工肛門、人工膀胱にしなければならず、また、その状態では激しいアクションはできなくなります。

松田優作は1週間考えさせてほしいと述べましたが、激しいアクションが予想される『ブラック・レイン』の撮影を控えた松田優作は「今は手術もできないし、強い薬も使って欲しくない」という答えを出しました。当時は3年もつかどうかという状態という診断でした。しかし、死因であるガンは予想できない速さで進行していきました。

『ブラック・レイン』がクランクアップするまでの約1年もたせられないかということで治療方針が決まりましたが、3週間後、受診した際には膀胱の内側にまで癌が広がり、進行の速さは恐ろしいものでした。撮影のためニューヨークに渡った後も松田優作は毎晩のように医師に電話し、血尿と激しい痛みを訴えたといいます。

医師は持っている薬を飲むようにとしか言えなかったが、「先生と話していると落ち着く」と言い、具体的治療というよりは精神的な支えになっていたと思われます。翌年の9月28日、あまりの痛みに耐えられずに友人に担ぎ込まれたが、その時には死因となるガンは膀胱はもちろん骨盤や内臓まで広がっていました。

松田優作は死因となるガンの苦しい闘病生活の中でも、頭がはっきりしなくなってしまうことから痛み止めとしての麻薬を使うことを拒否していましたから、痛み止めを使っていても、痛みは残っており、また、腰部骨転移によって骨折の危険性があり、そのような状態で遺作となる『ブラック・レイン』での激しいアクション・シーンをこなしていたと思うと、その精神力に脱帽します。

しかし、そんな松田優作もある日、死因であるガンが治療もできないほどになっているならなぜきちんと話してくれなかったのかと信頼していた医師にぶつけました。もちろん、医師は死因であるガンの状況は常にきちんと話していました。それでも駄々っ子のように誰かにぶつけずにはいられなかったのでしょう。

松田優作に訪れた死

遺作である『ブラック・レイン』の公開後1カ月が過ぎた頃、1989年10月下旬、「もう、だめだね…」とつぶやき、それは松田優作の初めての弱音でした。1989年11月6日午後6時45分、松田優作の壮絶な40年の人生が幕を閉じました。死のその瞬間、松田優作は一筋の涙をこぼしたといいます。

般若心経と悟り

「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経」般若心経の最後にあるマントラと言われる一節があります。それは母・かねこが亡くなった時(1984年11月)に覚えたもののようです。「行きて、行きて、悟りの彼岸に行きて、悟りの極みに行きて、悟りよ幸あれ、ここに、知恵の完成に至る者の心を終える」という意味だそうです。

この一節を松田優作は覚え、ことあるごとに唱え、心を落ち着けていたといいます。そして、般若心経の写経と座禅を始め、「俳優の仕事は、悟りに至るまでの道程だと思っている」と前妻である松田美智子に述べたそうです。亡くなる前年、1988年12月25日のことでした。

その3カ月前の9月、家族で温泉に行った帰り道、体調不良を訴えて荻窪の病院に駆け付け、すぐに応急処置を受け、そのまま入院したと言います。その際に死因である膀胱癌が見つかりました。見つかった時にはすでに膀胱の4分の1が侵されていました。死因である膀胱癌により一歩ずつ「死」近づきながら、一体どんな思いで般若心経を唱えていたのでしょうか?

松田優作の葬儀

1989年11月8日、東京・三鷹の霊泉斎場で松田優作の葬儀が執り行われました。松田優作の葬儀には、多くの俳優仲間や関係者が駆けつけました。葬儀の参列者は兄と慕っていた原田芳雄、桃井かおり、成田三樹夫、安岡力也、仲村トオル、古尾谷雅人、 石橋蓮司、萩原健一などが弔問に訪れたそうです。

原田芳雄が葬儀の弔辞にて、「優作…。俺は今までお前が死ぬとこを何度も観てきた。そしてその度にお前は生き返ってきたじゃないか。役者なら生き返ってみろ! 生き返って出てこい!」と泣きながら叫んだといいます。死因であるガンを知らなかった参列者たちは突然のことに言葉を失ったままの葬儀でした。

また、葬儀に参列した成田三樹夫は「人の命なんてものは、まったくあてになりませんな…」と言い、安岡力也は「どっちが喧嘩つよいかよく話してたけど、もう喧嘩できなくなったじゃねえか」とコメントしました。当時の妻であり、末期になるまで死因となった膀胱癌を知らされなかった松田美由紀が、棺にすがりつき泣く姿が印象的な葬儀でした。

松田優作の恐れた差別と死因

多くの俳優たちに愛され、しかし神経質で時には暴力的であった松田優作。誰もがうらやむその才能は確かなものでしたがその半面、在日韓国人であったこと、そして正式に認められた子供ではなかったことなどの生い立ちからコンプレックスが強かったようにも思われます。

実際、前妻の美智子は自らの著書の中で、当初松田優作が在日韓国人であることを隠していたが、美智子の家族が松田優作の身辺調査をし、彼が私生児であること、在日韓国人であるという事実を美智子に告げたが、美智子はそのまま同棲を続けたといいます。

しかしある時、そのことが松田優作に分かり、叱られるのではないかと心配しましたが、松田優作は知っていても一緒にいてくれた美智子に心より感謝し、抱きしめて涙を流したといいます。それだけ差別によってツラい目にあってきたということだったのでしょう。そして、そのような差別に対する思いを松田優作にさせていたのは日本人であったのです。

いつも葛藤の中にいた松田優作であったからこそ俳優として常に新しい何かを生み出す原動力になっていたのではないでしょうか?そんな松田優作が死因である膀胱癌により「死」を突きつけられ、死因であるガンと向かい合うという闘病生活を決めた時、一体どんな思いだったでしょう。その強さは、貧しさ、差別に耐えた子供の頃の経験に裏打ちされていたのではないでしょうか?

もし松田優作が死因である膀胱癌の治療に専念し、今でも生きていたとしたらという仮定の話を考えてしまいますが、触れれば切れてしまうナイフのような松田優作ではなくなっていたでしょう。しかし、もっと生きたいという気持ちは決してゼロではなかったはずです。

現に、死の2日前、松田優作は病院を訪れた原田芳雄の目の前で、泣きながら点滴を引きちぎったと言います。けれど、それでも夢であった遺作となるハリウッド映画『ブラック・レイン』を撮るという死を受け入れながらの死因であるガンの闘病生活を選んだ松田優作は最期まで「俳優・松田優作」でした。

俳優・松田優作の死因

ここまで、松田優作の死因について調べてきましたが、松田優作は死因であるガンにより「死」を突き付けられた時、「俳優」としての自分の美学を貫きました。苦しい闘病生活の中で、ごくごく身内にしか膀胱癌であるという真実を告げずに走り去っていきました。最期まで「俳優・松田優作」を演じていたのかもしれませんね。

松田優作の息子・松田翔太と松田龍平から娘・妻について徹底調査! | MensModern[メンズモダン]

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